ポストインターネットアートについて考えてみました。
ICCで面白いテーマでイベントがあったので、1年ぶりくらいに行ってきました。
ICC ONLINE | アーカイヴ | 2012年 | [インターネット アート これから]——ポスト・インターネットのリアリティ
一つ目の主張は、日常・プライベートにインターネットが侵食してきた ということ。
確かに、インターネット上で20人中3人が良いといったら、めちゃめちゃ流行っているように感じてしまうよね。ちょっと前に、たかみなの母親が捕まったニュースがインターネット上だけで広がったけど、あれだって、テレビだけ見てる人は知ったのが遅かったわけだよね。
座談会で話されてたこの主張付近の話題は以下の通り。
- mixiの足跡機能は画期的だった。日常の生活と同じになってきた
- BBSカルチャー、見てるだけのロム専から、見ていることが可視化されてきた
- 読んでいること前提で話が進む気持ち悪さ。
- Twitterのふぁぼるカルチャー
- ふぁぼられているかどうかを気にするようになる
- ふぁぼられることを意識したことをつぶやきたくなる
- 常時接続していることが多くなり、切断されることが少なくなってきた
二つ目の主張は、 日常化によって、「ハッキング → デフォルト」になった。
これは面白いなぁ。インターネットアートって「反体制」なものだったんだね、きっと。
座談会で話されてたこの主張付近の話題は以下の通り。
- 元々は、こんなこともできるんだ凄いだろ! という技術ありきのアートが主流。その背景には、個人情報が世の中に流れてしまうことへの怯え。それに対して制御してやろうという、ハッカー精神。
- ウィンドウが動くとか、ボタンでアートとか
Googleマップのストリートビュー画像:9eyes(Jon Rafman) « 建築翻訳家/フレーズクレーズ代表 牧尾晴喜のブログ
- 何処までが作品か? 共同・コピー
- 1万分割されたアメリカ合衆国100ドル紙幣を,のべ1万人の匿名の人々に再描写してもらうプロジェクト。Amazon Mechanical Turkを利用して募集された参加者は,ひとつの描写に対して1セントの労働報酬を受け取り,総額で1万セント(100ドル)が制作に費やされた。作品を通して,現代のデジタル社会において「労働」「分配」「恊働」がどのような形でありうるかを再考。
三つ目の主張は、日常化によって、イメージとオブジェクトが曖昧になったということ。Botと人間が区別できなくなるくらい、主体が荒くなってきた。これ、いよいよ、マトリックス的な世界観だよね、ほんと。どっちが本当の世界?! みたいな。
- タンブラーで改変されたものを見るとPhotoshopでやったんだろうなと分かる。でも実空間の質感も残っていると、ああ、現実にあったんだと思い込んじゃう(本当はありえないことであっても)。ただのデータなのに、インターネットだと信じちゃうという現象。
‐サザエBotが「ICCナウ」とTwitterで云うとTwitter上では「ああ、中の人がいるんだな」と信じちゃう。でも実際にICCにいるとホントにいるのー?と思う。
久々にICC行ったけど、やっぱり多くの刺激を貰った。
また、ちょくちょく行かないとな。