退屈とは何かの考察が興味深い『暇と退屈の倫理学』
コンテンツは、決して生きるために必要なものではなく、「暇」を埋め、「退屈」を逃れるものだ。
そういう意味で、コンテンツにおける市場である"暇市場"の構造を知ることは意義深い。
- 作者: 國分功一郎
- 出版社/メーカー: 太田出版
- 発売日: 2015/03/07
- メディア: 単行本
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- 「退屈」の定義
- 「退屈」には、3つの形式がある。
- 第一形態
- たとえば、われわれはある片田舎の小さなローカル栓の、ある無趣味な駅舎で腰かけている。次の列車は4時間たったら来る。この地域は別に魅力はない。なるほどリュックサックに本を1冊持ってはいる。では本を読もうか?いや、その気にはなれない。それとも何か問いか問題を考え抜くことにするか?そういう感じでもない。時刻表を読んだり、この駅から別の地域までの距離の一覧表を詳しく見たりするが、それらの地域のことは他には何もわからない。時計を見る。−やっと15分過ぎたばかりだ。
- 退屈させる対象に対して、主体が気晴らしをしている状況。のろい時間が我々を引きとめている。暇があり、退屈しているという一番シンプルな形。
- 第一形態
-
- 第二形態
- われわれは、夕方どこかへ招待されている。だからといって、行かねばならないということはない。しかし我々は一日中緊張していたし、それに時間が空いている。そういうわけだから、行くことにしよう。そこでは慣例通りの夕食が出る。食卓を囲んで慣例通りの会話が交わされる。全てとてもおいしいばかりではなく、趣味もなかなかいい。食事がすむと、よくある感じで、楽しく一緒に腰かけ、多分、音楽を聴き、談笑する。面白く、愉快である。そろそろ帰る時間だ。婦人たちは本当に楽しかった、とってもすばらしかったと確かめるように何度もいう。それも、別れのあいさつのときだけではなく、下へ降りて外にでて、もうすでに自分たちだけになってしまっているのにそうしている。その通りだ。とてもすばらしかった。今晩の招待において、退屈であったようなものは端的に何も見つからない。会話も、人々も、場所も、退屈ではなかった。だから全く満足して帰宅したのだ。帰宅すると、夕方中断しておいた仕事にちょっと目を通し、明日の仕事についておおよその見当をつけ、目安を立てる。すると、そのとき気がつくのだ。私は今晩、この招待に際し、本当は退屈していたのだと。
- パーティ全体が気晴らしであり、退屈を生む。のろいわけではないものの、決して逃れられないという意味で、根源的な時間への引きとめをくらっている状況。暇がないのに、退屈しているという人生そのものに近い。
- 第二形態
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- 第三形態
- なんとなく退屈だ
- なにもないだだっぴろいところにぽつんと一人取り残されているような状態。そんなとき、人間は自分に目を向けることを強制され、この事態を突破する可能性を見出すことを強制される。その可能性、つまり自由を与えられて、人間は決断するべきなのか?
- 第三形態
- 人間が極めて環世界移動能力が高く、一つの環世界に浸っていられないゆえに、退屈は生まれる。
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- 人間は、動物に比べ容易に環世界を移動できる。たとえば、数か月星空のことを勉強するだけで、星空をみるときの感覚はまるで変わっていることだろう。これは、環世界を移動したと言える。
- 人間は、第二形態がもたらす、安定と均整の中で生きている。が、何かが原因で、第三形態の「退屈だ」という声に脅かされ、自分の心や体や環境に故意に無関心になり、何かの奴隷になること(第一形態)で安寧を得ようとする。つまり、決断し、何かを選び取り、それ以外をしないという選択は、第一形態に陥ることと同じだ。
- つまり、退屈は、人生に付きまとうものである。が、その対抗策がいくつかある。一つは、観念を受け取ることの奴隷(=第一形態)に陥りやすい”消費”から逃れ、”モノがあふれる浪費(=モノを楽しむ)”べきだということ。
- ただし、浪費、楽しむためには訓練が必要。たとえば、第二形態の事例でいえば、慣例通りの食事といっているが、不味かったのか、おいしかったのかが不明だ。知識があれば、感想も違っていたはずだ。つまり、訓練不足で食事を受け取れなかったといえる。これらを訓練することで、暇はあるけど退屈しない貴族のような状態になれる。
- さらに続きがある。食べることを楽しむとどうなるか。次第に食べ物について志向するようになる。おいしいものが何で出来ていて、どうすればおいしくできるのかを考えるようになる。思考することこそ、一つの環世界に留まりやすくなるコツであり、少しだけ動物に近づく意味で、退屈から逃れられる。
- ドゥルーズの言葉が素敵だ。「なぜ、あなたは、毎週末、美術館に行ったり、映画館に行ったりするのか?その努力は、いったいどこから来るのか?」と問われると、「私は、(動物になることが発生する瞬間を)待ち構えているのだ」と答えたという。
本書を読んで感じたこと。まさに、本屋に行って、本に出会うとは、退屈への対抗策になっているのではないかということ。本屋とは、世の中の出来事の縮図と言えるため、美術館や映画館より、遥かに汎用的なとりされられるための空間と言える。そして、本を読むとは、ある事象に関する周辺知識を得ることで、その事象自体をより楽しむことに繋がるからだ。
一方で、本屋⇒本に出会うというプロセスを踏まないで、検索などで本に出会うということは、何かの強迫観念に基づいており、本を消費しているだけと言えるかもしれない。