右、斜め45度

右斜め45度は、「Done is better than perfect!」の日本語訳のつもり。進んでいれば良しとする精神を大事にしたい。

変わらないといけないけど、変わっちゃいけないこと

ku:nelのリニューアルは散々だったようだ。

『ku:nel』の苦戦と「SNSは緩慢な自殺なのか」問題【第85回】|すべてのニュースは賞味期限切れである|おぐらりゅうじ/速水健朗|cakes(ケイクス)

かつての雑誌は、アジア人でも「リセエンヌ」になれるとウソをついてくれるような存在だった。だけど、それを乗り越え、フランス人にならなくてもいいんだという答えを示したのが、かつての『ku:nel』だと。なのに、今度のリニューアルは、ここにきてもう一度、50歳で「フランス人」になろうと言い出してしまった。それはこれまでの人生の否定ということになる。

「ライフスタイル」なんてカタカナでは言い表せない、ガチの「暮らし」ですよ。もともと『ku:nel』って、エプロン姿も素敵よね、古い家具も味があっていいのよ、というような思想だったはずなんです。それこそ、手作りのフルーツゼリーこそが「宝石」で、決してクロムハーツではなかった。長く使う定番は、自分たちでせっせと裁縫した巾着袋で、フェンディのバッグじゃない。おばあちゃんの代からずっと実家にある和たんすを褒めてくれるのが『ku:nel』だったのに、パリの高級アンティークショップで売られている家具を紹介されても、いやそれ違うから、ってなるでしょう。


確かに、雑誌の売れ行きが芳しくない中で、購入商品を紙面に載せて広告費を稼がないといけないという裏事情があったのだろう。でも、なんで、ひらたくいうと、ここまで、「顧客ニーズを取り違えてしまった」んだろうか。

一方。Quickjapanのリニューアルは概ね評判がいいといわれている。これまで、モモクロなどのアイドル路線だったのに、奥田愛基が背表紙になるなど、パッと見は、むしろ、ku:nelより変わったように見える。

なぜ『Quick Japan』はSEALDs奥田愛基を表紙にしたのか? 新編集長・続木順平さんに聞く(1) - 新刊JP

リニューアルにあたり、『Quick Japan』の創刊号を読み返していたのですが、そこで初代編集長の赤田祐一さんが、「A VOICE OF NEW GENERATION」という言葉を使っていたんです。

「ジャーナリズム」ではなく「ニュー・ジャーナリズム」を本気で目指した雑誌を若い人に届けるんだ、そのためにはもっと現場に行って一緒に体験をしたり、同行したりして、彼らの声に耳を傾けて、自分の言葉でそのことを書かないといけないんだという内容なんですが、「これって今じゃん!」って(笑)。特に今は若い世代と上の世代との興味の対象がスパっと切れて、何をしているのかまったくわからない状態が増えている気がするので、そのあたりをちゃんと知りたい。でもそれがなくなってしまったのは、役割を担う人が減っているからなんじゃないかという想いもあって、この言葉を改めて提示しました。


これを読んで思ったのは、別に、政治色が強くなるとかアイドルを取り扱うとかそういうことじゃない。もっと根っこの部分のコンセプトをより純化させたのだ、その結果、取り扱う素材の幅は増えたけど、それでもQuickjapanらしさは保っている。だから、好評だったのでは?と思うのだ。

変わらないといけないけど、変わっちゃいけないリニューアル。
何を変えちゃいけなくて、何を変えないといけないのか。
僕は以下のように考える。

世の中に対しての向き合い方の角度(着眼点・視点のようなもの)は変わっちゃいけない。雑誌を当初作り上げた人々やその頃のファンがその雑誌に期待するものを理解&尊敬し、大切にしないといけない。ただ、その着眼点・視点で見る対象は、時代に合わせて変えたほうがいい。Quickjapanが奥田君を取り上げたように。

さて、僕もサービスリニューアルを頑張るとするか。
世間に問うてみるのが楽しみでしかたない。

投資家とコンセプトメーカーと執行役

僕は超大企業が作ったベンチャー(子会社)に勤めています。
社長は、その超大企業から来た人です。

この会社に勤めていると、以下のようなグチをこぼして、辞める人が多いんです。

  • うちの会社は、何処を目指しているのか分からない
  • 社長は、進む方針を示さない

確かに、通常は、「社長」というのは、その会社が何故存在するのかというWhyを定義する人であり、僕の定義だと、コンセプトメーカーです。そして、それを執行する役目が、社長以下の部長陣(執行役)の役割になるわけです。

でも、うちはそうじゃない。普通の会社じゃない。
超大企業の一員であり、その超大企業のポートフォリオの一つとして、このベンチャーを作ったわけです。
そして、そこから来た社長も同じ立ち位置です。失敗したら失敗したで、バッテンは付きますが、そういう経験をしたという価値は手に入ると心の底では思っていると思います。

その態度を、「やっぱり、大企業から来ている人だ、俺らのことは分かってない」という風に捉えて、自分たちのことを「守ってくれない」というスタンスを取っても、誰もハッピーではないです。

それより、投資家と思った方がいい。
お金をどんなWhy?に投資すれば、もっと増えてかえってくるかを考えている人です。

そう考えると、僕らは、執行役・ワーカーではなく、コンセプトワーカーになれるわけです。存分に夢を熱く語ることが、唯一の投資家に認められる道筋なわけです。それを放棄して、誰もきめてくれなーいっていうのは、そもそも、自分の置かれている環境すら理解していない愚物ということになります。

投資家と捉えると、うちの会社と社長は、超優良です。
5年も、赤字を許容してくれる。
親会社を動かすための、執行役・ワーカーとしても動いてくれる。
あるべきコンセプトをとても理解してくれるし、評価してくれる。

こう捉えると、とても楽になるですけどね。
みんな分かってないと思います。

資本主義のフレームってドラゴンボールと同じだな『資本主義の極意』佐藤優

この本で、政治経済について物事を考えるフレームワークを手に入れた気分です。


1.資本主義の起源には、労働力の商品化がある

まず始めに、貨幣で交換できる”商品”があることが出発点です。そして、自給自足で成り立つ経済ではなく、すべてのモノが貨幣で交換できる商品経済になった世界を、資本主義経済と言う。資本とは、カネの元手のことであり、ようは、元手があれば、勝手に廻っていく仕組みということだと思う。

では、自給自足経済と、商品経済を分けるものとは何か?というと、労働力が商品化したかどうかです。これは、「あさが来た」という朝ドラでも如実に表れている。両替商を行っていた江戸時代は、丁稚奉公と一緒に暮らしていたわけです。ファミリー、みんな一心同体なわけです。それが、銀行になってからは、給料を払い、別々に暮らすようになる。代わりに、格式が高い家の娘さんを優秀な社員として雇うことが出来るので、カネを稼ぐ、ため込む力が飛躍的に増えたといっていい。

2.労働力の商品化は、きっかけがあって起きる

労働力の商品化は、「身分的な制約や土地への拘束を離れて自由に移動できること」「自分の土地と生産手段を持っていないこと」という二重の自由があって成り立つ。イギリスでは、大寒波⇒毛糸の需要が高まる⇒地主が農民を追い出して羊を飼う(囲い込み)⇒都市に出てきて毛織物工場で働くという、いわゆるエンクロージャーが起きて、労働力の商品化が起こる。これを引き起こしたのは、大寒波という偶然に過ぎない。日本の場合は、まず、富国強兵を目指して、国家が主導して、税金をつぎ込んで、富岡製糸場のような、工場を建てる。ここで働いていたのは士族の子女であり、採算は度外視なわけで、資本主義的論理で物事は動いていない。それが、西南戦争をきっかけに、以下の2つのことが生じ、労働力の商品化が起こる。

  • 戦争をきっかけに財政難になり増税。税金を払えなくなった農民が土地を手放し、都市に流出する。
  • 国家が、工場を三井・三菱などの民間企業に払い下げる

3.資本主義原理論では、常に、恐慌か戦争かの二択を迫られる

サイクル(好況⇒労働力不足⇒賃上げ⇒利益低下⇒恐慌⇒イノベーション⇒好況)を通じ、労働力の商品化が拡大し、労働者・資本家・地主の3つの立場に完全に分かれていくというのが原理論だ。この原理論において、投資するカネはあるけど労働力が高すぎて投資しても利益が出ないときに、投資するカネが余ってしまう資本の余剰がポイント。

そのまま、恐慌に突っ込むか、それを回避するには、その資本を戦争に突っ込むというのが最大の政策です。安部政権がステルス戦闘機F35の部品輸出やオーストラリアの潜水艦の共同開発など、経済の軍事化を進めるのは、資本を処理する近道だからだ。

4.重化学工業が植民地政策を生む

重化学工業は設備投資に多くのおカネが必要であり、一人の投資家の資金でなんとかなるものではなくなるため、銀行からおカネを借りたり、株式を発行するということが起こる。借金や株式でおカネが作れるようになると、景気に左右されずに(好況だからいまのうちに設備投資しておこう 等)、イノベーション(生産設備の増強)が起こる。つまり、純粋なサイクルからは逸脱していく。

こうして巨大化した株式会社や銀行が、より多くの利益を求め、資本を輸出していく。それを国益ととらえる国が、植民地政策を展開するというのは、想像に難くない。

5.まとめ

なぜか、資本主義の話を聞いて、ドラゴンボールを思い出した。彼らが強くなるポイントは、二つ。強大な敵が現れること(=戦争)と、死に損なうこと(=恐慌)だ。

数年間修行しても、1.2倍くらいの強さにしかならないのだけど、ひとたび強大なサイヤ人という敵があらわれることで、昨日までの敵であるピッコロと手を組んで、10倍、20倍もの強さを手に入れるわけだ。つまり、強さ(=資本主義)を拡大していくには、外の存在が必要ということ。

また、カリン塔で、超神水を飲むことで、数倍の力を手に入れるエピソードがあるが、これは死ぬ寸前まで追い込み、それを克服することで、強さ(=資本主義)を拡大することを意味する。

[BOOK]羽生さんを好きになった一冊『羽生さんはコンピュータに勝てますか?』川上量生

二人のAIに対するとらえ方がとても興味深かった。
まず、川上氏。「21世紀は人間とAIとの戦争の時代だ」「コンピュータが人間の仕事を奪う」というような漠然とした不安に対して、切れ味よい見解。

AIと言えば、ロジックですよね。人間の脳以外のロジックを、人間がコントロールできなくなるというのが、戦争のイメージであるならば、現時点でも資本主義やキリスト教といった人間の外にあるロジックをコントロールできていない。

人工知能が「人間のコントロールできないもの」を生み出すのではないと思う。人工知能がもたらすものは、ある社会構造や、金融のシステムなど、人間がコントロールできないシステムの進化の速度を上げることだと思う。

コンピュータの思考について、羽生氏の例えが非常に面白い。

コンピュータ将棋が発達すると、「棒銀はダメ」「穴熊は終わり」とかある戦法が丸ごと否定されるようになり、将棋の世界が狭くなっていくのでは?と言われることがあるが、むしろコンピュータによって、広くなっていくと思う。結局、人間が考えるアイデアは、どうしても似てくる。コンピュータは、全然違う角度から、「こういう手もありますよ」と提示してくるところがある。これは、人間の思考の死角をより明確に提示することだと思う。死角なのですから、そもそも、そこが死角であることすら気づいていないわけですが、それを具体的に提示されると、「あ、ここが死角だったのか」「これは盲点だった」と発見があるはずです。ただ、同時に難しさもあります。ピッチングマシーンで200キロを見た人が、その速さを目指したら、絶対肩を壊してしまうわけです。つねに制約のある世界で生きている人間に対して、「思考の世界では幅広く柔軟に、死角が生じないように」ということを求めるのは、ちょっとした矛盾があるように思える。

最後のほうで、すべてが満たされる世界では、誰もが死にたくなる。その中で死にたくないと思うのは、知的好奇心が旺盛な人だけだという話が出てくる。僕は、その話はたとえ話ではないと思った。数十年後〜数百年後、ロボットが全て働いてくれるようになり、食うために働く必要がなくなるだろう。そのとき、働きたいと思うのは、知的好奇心が高い人だけじゃないだろうか。

ピカソは偉大なるマーケターであった!『ピカソは本当に偉いのか?』西岡文彦

ピカソは本当に偉いのか? (新潮新書)

ピカソは本当に偉いのか? (新潮新書)

あんな絵は誰だって描ける、なんていわれる代名詞がピカソ
みんな、一見、子供の落書きのように見えるからこそ嘯くわけですが、
実は、その異様さに圧倒されており「こんな絵、かけねーよ」って内心思っているという奇妙な構造が成り立ってます。

私が唾を吐きは偉大な芸術として売られるだろう。
91歳でその生涯を閉じたピカソが手元に残した作品は7万点を超え、評価額は7500億円に上る。

分かりにくいものが何故評価されるのか?その秘密に迫ります。
この本を読むと、「人から評価されるにはどうしたらよいか」がよく分かります。
まず、驚いたのがこの一節。

作品のイメージは巨匠シャヴァンヌの画風にロートレックゴーギャンといった当時既に一定の評価を確立していた後期印象派の作風をブレンドしたものであくまで基本は写実にあった。批評家の中には、そのあまりに巧みな折衷ぶりに、ピカソが器用貧乏に終わることを危惧する向きさえあった。

つまり、あの作風は完全に戦略的に作り上げたものであるということ。
”衣食”足りてから、あの作風を作り上げたわけです。
では、何が戦略のキモであったのか?


まず、絵をとりまく環境が彼にマッチしていました。
絵そのものが何かを訴えれば良い時代になってきたわけです。

1.絵を描くことのゴールが美術館に入ることになった

教会を飾る彫刻や祭壇画はイエスキリストや聖母マリアや聖人の一場面などを描くことを通して人々に神の教えを伝えるものだった。また王宮を飾る壁画や症状は王家の由来を物語る歴史の一場面や黄色の姿を描くことを通して人々に王の権威を伝えるものだった。教会美術の授業を激減させた16世紀の宗教改革に続いて18世紀末のフランス革命は王政を終わらせ王室美術というものの授業も激減させる。そしてそれまで王室に収蔵されていた美術品はルーブル宮殿に映され市民を啓蒙するための美術品として一般に公開されることになる。

美術館に入ることを目的に製作され始めた近代以降の絵画では絵画の有り様を絵画そのもので物語る自分語り性や前衛性が作品の価値を決めるようになった。

2.写真との差別化を迫られた

近代絵画は、写実的な描写に置いて絶対に太刀打ちできない写真と言う技術の出現により、より人間的な絵画を模索する必要に迫られた。印象派の作品が画家の手の痕跡(タッチ)を強調していたのはそのため。さらに、後期印象派は、このタッチの各人が独自に工夫することで個性の表明としてのスタイルつまりは形式というものを確立した。


そのなかで、彼の天才的な人心掌握術を発揮し、美術館に入ることをゴールとしたときに、その決定権を握る画商たちの心を完全に握ったのです。

肖像画を書くことを通じて画商との関係を強化するという作戦も徹底していた。キュビズムの絵を売ってくれる画商の肖像は、キュビズムの手法で書き、印象派の販売で定評のある合唱には印象が風の作品を書いて渡すばかりかその画商や家族の肖像まで印象派ふうに書いているのです。


自分の感情をあらわにすることにたけていた。何の遠慮もなく自分の不機嫌機嫌をあらわにして周囲の人々を翻弄して顧みないところが多分にある。ピカソが愛人に別の愛人の顔を描いた餅を見せたり別の愛人からの手紙を読むように仕向けたりと関係を結んだ女性の嫉妬を喚起することに関して必要だった事は前にも書いたとおりですがこうした子供じみた不誠実な小細工なども時として破壊的なまでの効力を発揮することになる。もともと誠実な人であればあるほどかえって親密な関係を結んだ人相手の不誠実な言動には気づきやすいですからこうした不誠実な小細工による心理ゲームには他人との敵対的ライバル関係を望まない誠実な性格の持ち主の方がむしろ巻き込まれやすい。

画商や美術館の独占的な権利をめぐって恋愛関係にも似た競合関係を引き起こし相手を着目 幻惑するのが常でした。予測不可能の言動で相手を幻惑し、事前の対策を講じさせないというのがピカソの画商に対する戦略でした。そのためのシュミレーションを欠かさなかった。

その結果、キュビズムが生まれたと考えて良いと思います。
つまり、ピカソが、破壊的、前衛的な作風なのは、時代が求めていたからに他ならないわけです。
それは下記のやり取りでも分かります。つまり、ピカソがいまいたとしたら、全く違う作風になっていたかもしれません。

新興ブルジョア生活様式は革命で追放したはずの王侯貴族の俗悪な模倣と堕しており、その悪趣味への嫌悪感から、清貧のボヘミアンはむしろ精神的な貴族とみなされることになりました。金銭や権力では決して手に入れることのできない魂の純潔や精神の継続性が新しい時代の英雄の証となり隠して芸術家たちはブルジョワ的な事前に満ちた社会の閉塞感に立ち向かう意志とみなされることになります。砂利やピカソの暴力的破壊的な表現が、前衛的な芸術家や先鋭的な知識人の賞賛を集めたのは、その爆発的なインパクトがブルジョワ的な偽善に下される鉄槌と映ったから。

そう考えると、とても奇妙な入れ子構造に気付きます。
絵画の目標が美術館入りになった際に、「世界を独自の視点から捉えること(物語性、自己言及性)」が求められるようになったわけですが、実はピカソは「みんなが望んでいる”破壊”を描画したに過ぎない=完全に自分の内面から湧き出た表現ではない」ということです。

ピカソは偉大なるマーケターであった と僕は結論づけています。

人生は無駄なものでできており、その無駄を効率的に得られる場所が本であり、本屋である『なぜ本屋に行くとアイデアが生まれるのか』嶋 浩一郎

奥さんや奥さんの妹から、本を買うなんてもったいない、図書館に行けばいいと
なかば僕の職業を否定されるようなことを言われる日々ですが、どう言い返せばいいのかなと
思っていたので、ぴったりでした。

人生は無駄なものでできており、その無駄を効率的に得られる場所が本であり、本屋であるというのが
たぶん言いたいことだなと。

本屋とは効率的に無駄に出会える

本屋は、気づかなかった関心、すぐに役立つわけでない無駄に出会える場所であると説いてます。

まるでガウディの建築のようです。
たった数冊の本が売れて、そこに補充することで、大きく見れば在庫はほとんど動いていないにも関わらず、その本屋さんの表情は大きく変化して感じられるのです。このように日々、〃本屋さんでも表情は変わっていって、新たな魅力や気付かなかった自分の関心を発見できるかもしれない。そういう楽しみがあるのです。

ネット書店はほしいものがみつかるのに対し、本屋は何がほしかったのかがわかるということになる。

本屋の棚の前をうろうろするのは、膨大な無駄な知識の世界に自分が浮遊しているような感じで、それは純粋に楽しい。アイザックアシモフは人間は無駄な知識を得ることで快感を覚える唯一の動物であるといったように、無駄は人間の特権です。

ビックロのキャッチコピーは素晴らしきゴチャゴチャ感。それはそのまま本屋にもあてはまる。

本屋の特徴は文脈棚である

本は、集合知的、レコメンド、自分の嗅覚の3つで探すものであり、自分の嗅覚で探すのがやりやすいのが町の本屋であり、優れた本屋であると説いています。

一人のマニアの人が書棚をつくると、敷居が高くなってしまい、お客さんから見たらバリアのある棚になってしまう。
恵文社には、棚担当が明確に決まっているわけではなくて、一つの棚を複数の人がいじっていくということをやっているそうです。
そうすることによって、多様な視点がいりこんで、いろいろな人にひっかかりをもたらすことのできる書棚になるわけです。

恵文社の平積み台には毎回何かをテーマにしている場所もあります。
そのテーマも植物をテーマにしていたり、時間をテーマにしていたりと、行くたびに変わっています。
時間というテーマだったら、物理学や哲学など、ふだん読まないような本がある一方で、その中心には、必ずみんなが知っている本が置いてあります。本川達雄さんのゾウの時間ネズミの時間もあるし、ミヒャエル・エンデのモモもあるし、スタンリーキューブリックが映画化した時計仕掛けのオレンジもあるといったように、誰もが知っている敷居の低い本から始めるのです。

キリスト教の本のとなりに、修道院がつくったワインの本があって、そのほんの横にチーズの本、発酵食品つながりで菌類がキャラクターとして登場する漫画といった感じ。同じ著者、同じテーマ、同じ読書層という鋳型にはめられてしまうのではなく、孫の手のようにかゆいところに手が届くというか自分の興味のひっかかりをうまく探り出してくれるようなところがあるのです。


そもそも本とは話題と話題を粘着させる力を養うことに意味がある

なぜ無駄なものが必要か?
クリエイティブな仕事をするからだ。
クリエイティブとは、知識同士の新しい結びつきである。
それは、日ごろから本を読んで、新しい棚を自分の頭に作っておく必要があるんだと思う。


本を読むときのコツのひとつに併読がある。異なる本に書いてあることがおもいがけないところで結びついたりする。
あるいは同じ一つのものを違う視点から見ることができる。話題と話題の粘着力をみにつけることによって、いろいろな人の感情に訴えられるようなたとえ話をたくさん持つことができるようになる。

最近は知りたかったことを知るに偏りすぎている。知らないことをしることは、読書でしかできない。

16世紀、ローマ教皇ユリウス2世がミケランジェロシスティーナ礼拝堂の天井画を依頼しました。
もちろん、そうしたものにはお金がかかりますから、ローマ教会は免罪符を売って金儲けに走ります。それに憤慨したルターはカトリックに対抗し、プロテスタントを興します。このプロテスタントの増加を恐れて、スペインのフェリペ2世が作ったのが、イエズス会です。イエズス会の宣教師フランシスコザビエルは日本にキリスト教とともに唐辛子をもたらしましたその唐辛子を豊臣秀吉朝鮮出兵の時に朝鮮半島に伝えて、そのことで辛子明太子が誕生した。

これら一つ一つはそれぞれ別の本で得た知識です。あるときそれらが本棚の中で、つまり自分の頭の中で結びつくのです。

コンテンツの本質をここまで深堀したものは見たことありませんでした『コンテンツの秘密 ぼくがジブリで考えたこと』川上量生

いま、総合書店サイトで、「編成(コンテンツの並べ方)」とはどうあるべきかを考えるポジションにいるため、
おのずと考えることが多くなった「コンテンツとは何か」。それについて、非常に緻密な分析と示唆に富んだ一冊です。

様々な定義が為されていますが、一番しっくりきたのは、以下の定義。

コンテンツとは、わかりそうでわからないもの。

人間にとって、現実を模倣(シミュレーション)することは、生存にとって有利であったと解釈されてます。
だからこそ、わかりそうでわからないもの(=簡単に模倣できそうでできないもの)とは、何度も消費するに値するものとされてきたというわけです。

では、わかりそうでわからないとは、客観的にはどういう状態なのか?というと、

 小さな客観的情報量により、大きな主観的情報量を表現するもの

ということです。

なるほど、現実を模倣するためには、消費したそのヒトに主観的な情報が多く発生する(=いろいろな気づきがある)のが良いコンテンツなわけですね。
ゲームが実写に近づこうが、実は主観的情報量が増えなければ、良いコンテンツとは言えないというわけです。
主観的情報量を多く発生させるには、パターンに限りがあるストーリーではなく、表現方法を凝るのが合理的とされてます。
面白いエピソードがあったので記載します。

なぜトトロがヒットしたか?といえば、トトロのおなかがふわふわしてて、なんだか触るとへこんだりしてきもちよさそうだからに決まっている。
魔女の宅急便の最後、とべるようになったのかについては、あかされてないが、誰も気にしない。

小説家になろうというサイトで人気のストーリーは、異世界転生モノ。
どのように転生するかという転生方法もパターン化されており、たいていはトラックに轢かれるというもの。転生トラックといわれている。
ユーザジェネレーティッドコンテンツは、パターンが多いように見えてそうではない。コンテンツの多様性を保つためには激しい戦いをしてはいけない。競争が増えると、ソーシャルゲームのようにワンパターンになるのだ。

ふむ、もしかしたら、本の定価が維持されることは、過度に競争に巻き込まれないという意味で、コンテンツの幅広さに貢献しているのかもしれません。
いままで考えたことなかったな。ユーザジェネレーテッドコンテンツの方が多様性が生まれると思ってた。
リエーターは、上記のことを考えたうえで、表現方法に凝り、あの手この手で飽きないものを作り続けているヒトということでしょう。
最後に、その中で天才クリエーターとは何かが書いてあったので、それも参考までに。

なぜ宮さんは、きもちいい形を正確にかけるのか。おそらく目が見たとおりをそのまま描いているだけだと思います。つまり脳が認識して、受け取った情報のまま紙に写しているので、それが結果的に脳が理解しやすい形になるというのが宮崎駿の秘密だと思います。つまり、天才とは自分のビジョンを表現してコンテンツをつくるときに、どんなものが実際にできるのかシュミレーションする能力を持っている人である。

ふと次に考えてみたいことが決まりました。
ピカソはなぜ偉大なのかです。

昔、母親が、「こんな絵なら私でも書ける」と冗談を言っていたことを覚えています。僕は、冗談だとしても、「それは絶対無理だ」と思っていました。
それは、見たときにこれほどまでにいろいろな感情を掻き立てるものは、やはり、凄いと思っていたからです。
上記の定義に照らせば、大きな主観的情報量を与えているからということになります。そんな気もします。
どのようなことを考えて、あの画風に行きついたのか、今度はそれを考えてみたいと思います。