右、斜め45度

右斜め45度は、「Done is better than perfect!」の日本語訳のつもり。進んでいれば良しとする精神を大事にしたい。

お金の違和感の正体に気づく本『エンデの遺言』

エンデの遺言 ―根源からお金を問うこと (講談社+α文庫)

エンデの遺言 ―根源からお金を問うこと (講談社+α文庫)

お金の重大な問題は以下に集約される。

  • パン屋でパンを買う購入代金としてのお金と、株式取引所で扱われる資本としてのお金が同じお金でありながら、違う性質をもつ。後者のお金は、「利子」という錬金術的に自然増殖する(癌細胞のように、「対数的に」)お金の問題を秘めており、富むものがより富んで、貧しい人はより貧しくという不条理を引き起こし、また、大抵の人の生活も苦しくしている。具体的には、利子は銀行からお金を借りなくても、商品の金額の中に既に含まれており、利子がなくなれば、モノの価格は30〜50%安くなるはず。企業のキャッシュフローの4分の1が利払いに充てられている。
    • お金は劣化しない性質を持ったため、モノを持つ側よりカネを持つ側の方が圧倒的に強くなった。そのため、プラスの利子がまかり通るようになった。本来であれば、どんなモノにも代えられる価値を持つカネは、その利便性と引き換えに減価されてもよいはずなのに。
  • 問題を解決するには、マイナス利子だ。
    • 自分の炭鉱の石炭を担保にし、掘る給与として、毎月1%ずつ減価する通貨、ヴェーラを配った(3分の2は法定通貨のまま)。また、ヴェーラで購入できる商店も用意。商店に客が殺到することで、初めて、街の商店もヴェーラを扱い始めた。減価する前に使わないとということで、どんどん経済が回るのだ。
    • 街のあちこちにおかれているタウン誌の申し込み用紙に1ドル同封し、自分が売りたいものを書いて送ると、そのタウン誌に記載され、そして、2アワー送られてくる。そして、地域のコミュニケーションがはじまる。例えば、あなたが自家製パンを売っているとしたら、どんなパンがあるのかといあわせがあるかもしれない。そのヒトがピアノのレッスンをイサカアワーで受け入れていると知り、娘のレッスンを頼みます。ところが、レッスン料と自分の稼ぐアワーが折り合わない時、自家製のパンも提供するなどの交換が成り立つ。
      • 利子はゼロのモデル。「時は金なり。この紙幣は、時間の労働、もしくは交渉のうえで、モノやサービスの対価が保証されている。イサカアワーは、私たちの技能、体力、道具、森林、野原、そして川などn本来の資本によって支えられています」と紙幣に書かれている。だれも、イサカアワーで銀行ビジネスをしようとは思わないんだろうなぁ。

結果、ヴェーラは法定通貨を脅かす存在として禁止され、イサカアワーは推奨された。
あまりに急激に不況を救うなどして、目立ちすぎたからではないかと推察する。イサカアワーは、地域密着のポイントのような絶妙な位置付けに留まった。

なお、上記の不条理についてのモモの一節がこちら。
灰色の男が、利子をさしているのだろう。

モモは、マイスター・ホラに『あの人たちは、いったいどうしてあんなに灰色の顔をしているの?』と尋ねる。マイスター・ホラは答える。『死んだもので、いのちをつないでいるからだよ。お前も知っているだろう、彼らは人間の時間を盗んで生きている。しかし、この時間は、ほんとうの持ち主から切り離されると、文字通り死んでしまうのだ。人間というものは、ひとりひとりがそれぞれの自分の時間を持っている。そしてこのじかんは、ほんとうにじぶんのものであるあいだだけ、生きた時間でいられるのだよ』『じゃあ、灰色の男は、人間じゃないの?』『ほんとうはいないはずのものだ』

抽象化という概念が重要なことを知らしめる奇跡の書『料理の四面体』

料理の四面体 (中公文庫)

料理の四面体 (中公文庫)


この本には、とにかく驚かされた。

僕はこれまで、料理とは、よく言えば芸術的で、悪く言えば非科学的な代物と思っていた。というのも、「フランス料理はソースが命。ソースは、何百、何千もの組み合わせがあり、それをマスターするには十数年かかる」というような高尚さを自慢するような説が多いからである。

この本は、その真逆だ。

地球上に存在する膨大な料理方法、料理を、「空気」・「水」「油」という三角形を底辺に取り、「火」という時間と量の変化の過程で解明する。

そして、そのことで、下記のような「主体的な料理」が可能になる。

四面体の原理を頭におきながら、ひとつひとつ基本プロセスに分解する。そうして、その料理の根本をつかんでおけば、好みに応じて、不必要なプロセスを省略してみたり、指示されている調味料・香辛料を自己流に変えてみたり、といった末節な作業は記述に惑わされることなく、主体的に行うことができるはずである


おおお、これこそ、ロジカルシンキングの意味ではないか!

この他、下記のような雑学も面白い。

13世紀の終わりくらいに、「鉄鍋」という文明の利器が家庭に入り込んで来て、今日の中国料理のスタイルを築いた。

暖炉→オーブンを万能調理器として活用して来た西洋人は、ふつうの煮物までオーブンの中に鍋ごと入れてしまうようなクセがつき、火にかけた鍋で油を操るテクニックには習熟しなかったのかもしれない。そのうえ、目的に応じて様々な大きさの深さの鍋を使いこなす個別化主義の西洋料理哲学は揚げ物のために揚げ物専用の深鍋を用意してしまったために、せいぜい2種類くらいの分類しかできなくなってしまった。その点、中国人は、大きな中華鍋一個を用いるため、そこに落とした一滴の油が鍋いっぱいになるまでのあらゆる過程で、さまざまな原料が様々なことなる形に変化していく様を連続的に眺めることができた。

揚げるという料理方法を分類し、その分類を使い活用していく姿が実に軽妙なので、紹介する。

揚げるは、四つに分類される。

  • 素揚げ
  • 粉揚げ
  • 衣揚げ
  • 変わり衣揚げ

材料は水分を含んでいるので、黒焦げになる恐れがあり、イモなど澱粉質を多く含み自らを守れるもの以外は、素揚げしない。こうした危険を防ぎ、外はカリカリ中はホカホカにするのが粉をまぶして揚げる唐揚げ。衣とは、粉をなんらかの液体にといた流動体をつけて揚げるもの。フィッシュアンドチップスは、タラやメルルーサに、小麦粉をタマゴと牛乳で溶いたものをよく練ってパイ生地のようにしてから付けて揚げる。技法は天ぷらと一緒。


揚げると炒めるの違いは、油の量。この違いを使い、日本のトンカツは、西洋カツレツの限界を打ち破った例も面白い。西洋カツレツは薄いが、日本のトンカツは厚い。


シャロウフライで炒めるのにカツレツの肉は薄くないといけないし、しかし、ぬるい油でフライしたらベチョベチョになってしまう。それが、西洋カツレツの限界だ。日本は、油たっぷりのディープフライで、外が焦げる前に、中に火を通し、ぬるい油でじっくり揚げながら、しかもべちゃべちゃにならないテクニックを作り出した。それがトンカツ。

夢ってこういう風に向き合えばいいんだなと理解できる本『クランツボルツに学ぶ夢のあきらめ方』



お笑い芸人の中には、クリームシチューや博多華丸大吉のように、幼馴染のコンビが少なくない。100万人に1人レベルの才能を持った人間がたまたま同級生に居たということは、確率的にありえない。これは、実は、100人に1人レベルの才能が100万人に1人の才能になるまでのプロセスがあることを意味している。


学年に1人はいる面白い奴(100人に1人)
↓冒険性
芸人を目指す(10000人に1人)
↓楽観性
辛さに耐える、プチブレイク。(10万人に1人)
↓好奇心と柔軟性の維持
天狗にならず仕事を選ばない。何でもやる。(100万人に1人)

バリエーションが増えて、コネクションが広がる
↓持続性
チャンスが来て、ブレイク


本書では、「冒険性」「楽観性」「好奇心」「柔軟性」「持続性」が高度に組み合わさることこそ、夢を叶えるプロセスだと解く。

「土俵にあがるとプチブレイク」は案外可能である(上記の例だと、芸人を目指せば、次のステップは10人に1人レベル)という事例として、殿様になる確率を計算して居て、非常に面白い。

徳川の143藩ある譜代大名をみてみると、安祥譜代7家、岡崎譜代16家、駿河譜代31家。当時、お百姓が侍をやっていたことが多く、それらを除外すると、家臣は、上記の譜代合わせて200名程度しかいませんでした。つまり、土俵に立てた人ベースに考えれば、3割ものヒトが殿様になれたことを示す

これは、部長になるくらいなら3割くらいがなれるという事実とも合致する。加えて、この本では、プチブレイクまでは結構な割合でできて、そこからは、いくつかの他流試合をこなし、自分がブレイクできるかどうかを見定めろと説いている。そして、難しそうなら、次の夢にいけと。

とても実践的な本だと感じた。

退屈とは何かの考察が興味深い『暇と退屈の倫理学』

コンテンツは、決して生きるために必要なものではなく、「暇」を埋め、「退屈」を逃れるものだ。
そういう意味で、コンテンツにおける市場である"暇市場"の構造を知ることは意義深い。

  • 「退屈」の定義
    • ラッセルいわく、昨日と今日を区別してくれる事件が起こることを望む気持ちがくじかれたことと定義する。つまり、区別してくれることがなんであれ(それが良くないことであれ)、昨日と今日を区別したいとみな思ってるということ。
    • そして、この起源を、パスカルは「人間の不幸というものは、みな、部屋の中で静かに休んでいられないことから起きる」と述べている。つまり、人間は定住するようになってから、暇と退屈と戦う様になったのだ。
  • 「退屈」には、3つの形式がある。
    • 第一形態
      • たとえば、われわれはある片田舎の小さなローカル栓の、ある無趣味な駅舎で腰かけている。次の列車は4時間たったら来る。この地域は別に魅力はない。なるほどリュックサックに本を1冊持ってはいる。では本を読もうか?いや、その気にはなれない。それとも何か問いか問題を考え抜くことにするか?そういう感じでもない。時刻表を読んだり、この駅から別の地域までの距離の一覧表を詳しく見たりするが、それらの地域のことは他には何もわからない。時計を見る。−やっと15分過ぎたばかりだ。
      • 退屈させる対象に対して、主体が気晴らしをしている状況。のろい時間が我々を引きとめている。暇があり、退屈しているという一番シンプルな形。
    • 第二形態
      • われわれは、夕方どこかへ招待されている。だからといって、行かねばならないということはない。しかし我々は一日中緊張していたし、それに時間が空いている。そういうわけだから、行くことにしよう。そこでは慣例通りの夕食が出る。食卓を囲んで慣例通りの会話が交わされる。全てとてもおいしいばかりではなく、趣味もなかなかいい。食事がすむと、よくある感じで、楽しく一緒に腰かけ、多分、音楽を聴き、談笑する。面白く、愉快である。そろそろ帰る時間だ。婦人たちは本当に楽しかった、とってもすばらしかったと確かめるように何度もいう。それも、別れのあいさつのときだけではなく、下へ降りて外にでて、もうすでに自分たちだけになってしまっているのにそうしている。その通りだ。とてもすばらしかった。今晩の招待において、退屈であったようなものは端的に何も見つからない。会話も、人々も、場所も、退屈ではなかった。だから全く満足して帰宅したのだ。帰宅すると、夕方中断しておいた仕事にちょっと目を通し、明日の仕事についておおよその見当をつけ、目安を立てる。すると、そのとき気がつくのだ。私は今晩、この招待に際し、本当は退屈していたのだと。
      • パーティ全体が気晴らしであり、退屈を生む。のろいわけではないものの、決して逃れられないという意味で、根源的な時間への引きとめをくらっている状況。暇がないのに、退屈しているという人生そのものに近い。
    • 第三形態
      • なんとなく退屈だ
      • なにもないだだっぴろいところにぽつんと一人取り残されているような状態。そんなとき、人間は自分に目を向けることを強制され、この事態を突破する可能性を見出すことを強制される。その可能性、つまり自由を与えられて、人間は決断するべきなのか?
  • 人間が極めて環世界移動能力が高く、一つの環世界に浸っていられないゆえに、退屈は生まれる。
    • 全ての動物・人間は、環境から受け取るシグナルが異なり、そのシグナルによって世界を構成しているので、別々の時間・空間を生きている。
      • たとえば、人間にとっては18分の1秒が感覚の限界。それ以上高速につつかれてもずっと押し当てられていると思ってしまう。魚は30分の1秒が感覚の限界なので、魚からしたら、人間はノロマな生き物に見えているかもしれない。
      • たとえば酪酸のにおいを待ち続け18年間絶食していたダニが見つかったが、人間には到底待てないと思うが、ダニからしたら「寝てた」ようなものなのかもしれない。
    • 人間は、動物に比べ容易に環世界を移動できる。たとえば、数か月星空のことを勉強するだけで、星空をみるときの感覚はまるで変わっていることだろう。これは、環世界を移動したと言える。
  • 人間は、第二形態がもたらす、安定と均整の中で生きている。が、何かが原因で、第三形態の「退屈だ」という声に脅かされ、自分の心や体や環境に故意に無関心になり、何かの奴隷になること(第一形態)で安寧を得ようとする。つまり、決断し、何かを選び取り、それ以外をしないという選択は、第一形態に陥ることと同じだ。
  • つまり、退屈は、人生に付きまとうものである。が、その対抗策がいくつかある。一つは、観念を受け取ることの奴隷(=第一形態)に陥りやすい”消費”から逃れ、”モノがあふれる浪費(=モノを楽しむ)”べきだということ。
    • ただし、浪費、楽しむためには訓練が必要。たとえば、第二形態の事例でいえば、慣例通りの食事といっているが、不味かったのか、おいしかったのかが不明だ。知識があれば、感想も違っていたはずだ。つまり、訓練不足で食事を受け取れなかったといえる。これらを訓練することで、暇はあるけど退屈しない貴族のような状態になれる。
  • さらに続きがある。食べることを楽しむとどうなるか。次第に食べ物について志向するようになる。おいしいものが何で出来ていて、どうすればおいしくできるのかを考えるようになる。思考することこそ、一つの環世界に留まりやすくなるコツであり、少しだけ動物に近づく意味で、退屈から逃れられる。
    • ドゥルーズの言葉が素敵だ。「なぜ、あなたは、毎週末、美術館に行ったり、映画館に行ったりするのか?その努力は、いったいどこから来るのか?」と問われると、「私は、(動物になることが発生する瞬間を)待ち構えているのだ」と答えたという。

本書を読んで感じたこと。まさに、本屋に行って、本に出会うとは、退屈への対抗策になっているのではないかということ。本屋とは、世の中の出来事の縮図と言えるため、美術館や映画館より、遥かに汎用的なとりされられるための空間と言える。そして、本を読むとは、ある事象に関する周辺知識を得ることで、その事象自体をより楽しむことに繋がるからだ。

一方で、本屋⇒本に出会うというプロセスを踏まないで、検索などで本に出会うということは、何かの強迫観念に基づいており、本を消費しているだけと言えるかもしれない。

天才編集者鳥嶋の漫画術との比較が面白い『荒木飛呂彦の漫画術』

コンテンツに携わるものとしては、面白いものを再現性高く生みだす方法に極めて興味がある。その点で、ジョジョの奇妙な冒険の著者「荒木氏」と、ドラゴンボールなどの大ヒットを生みだした編集者「鳥嶋氏」の漫画術の比較が非常に面白い。

すべての漫画家・漫画家志望必見、天才編集者鳥嶋が語る漫画の極意とは

1.キャラクターだけ立っていればよいのか?

鳥嶋氏はキャラクターの身近さであると説く。

そうね……言ってしまえば、「人間」を描けてるかどうかの一点に尽きるんだけどね。動物だろうが、ロボットだろうが、魔物だろうが、やっぱりキャラクターである以上は、本質的には“人間”なのよ。それがしっかりと描けていれば、「これは私だ」と読者に思わせられるんだよ。

「身近」に感じられるかどうかだね。

よく僕が新人漫画家に言うたとえ話があるんですよ――例えば、君が大好きだった女の子にデートの約束を取り付けて、その場所に急いでいたとする。そのとき、交通事故で倒れている人がいたら、どうするか。

知らない人だったら、きっと君は助けるかどうか迷うはず。

でも、それが自分の弟や妹、あるいは友達だったらどうするか。

たぶん、君は迷わず助けるんじゃないかな。そして、その君の判断は「身近」に思っているかどうかにかかっている。
「キャラクターを立てる」という事の本質は、ここに尽きるんだよ。キャラクターの「身近さ」を上手く作れているだけで、同じエピソードでも切迫度が一気に違う。

だから、ストーリーを作り込むことに血道を上げるのがいかに無駄かという話ですよ。その前に考えるべきは、身近に感じられる魅力的なキャラクターな んです。キャラクターさえしっかりしていれば、エピソードなんてどうとでもなる。というか、むしろエピソードなんて、そのキャラクターを際立たせるためのものでしかないんだよ。

一方で、荒木氏は、あくまでバランスであると説いてます。キャラクターだけ突出したパターンを否定するわけじゃないが、再現性がないと言いたいのでしょう。

キャラクター、世界観、ストーリー、テーマの4大要素が大切。サザエさんこち亀のようにキャラクターだけを突出させたり、AKIRAのように世界観だけを突出させることもできるが、真似できるものじゃない。

ただ、キャラクターの作り方においては、鳥嶋氏と近いことを言ってます。

読者の共感や興味を得る動機を作ってあげることだ。誰もが持っている醜い感情を開放させ、いわゆるきれいごとじゃない、人間の生々しい感情を描き、読者の共感を呼ぶ、悪のキャラクターを作れば、その漫画が傑作になる可能性が高まるでしょう。

キャラクターを作るときは、絵を描く前に、身上調査書を書く


2.描きたいものを書くべきか?

荒木氏は、世の中に迎合せず、自分の人生に沿ったものを描けと言う。

アナと雪の女王は、あの雪に閉ざされた白く寒い世界にしたことがヒットのポイントと踏んでいる。主人公の孤独な心というテーマが雪の世界で効果的に表現されていた。だからこそ、その凍えるような寒さと姉妹愛の温かさが際立った形で対比され、感動が生まれた。

テーマは、あくまで自分の人生に沿っているべき。自分が興味を持っていて、自分の心の深いところや人生に関わるものであれば、それが暗いテーマで売れそうにないと思えたとしても、それを描こうと決意すべき。ヒットするかどうかに重要なのは、必ずしも売れそうなテーマではない。

鳥嶋氏は、内面から湧き上がるものを描けという点では同じことを言っているが、「描きたい」と思うものはあこがれなので、やめろと言っている。同じことを言ってるが、鳥嶋氏の方が人間の心の弱さまで含めたアドバイスになっている。

作家には「描きたいもの」と「描けるもの」があるんだよ。そして、作家が「描きたいもの」は大体コピーなの。既製品の何かで、その人がそれまでの人生で憧れてきたものでしかない。

鳥山明さんであればアメコミっぽい作風だとか、そういうものが「描きたいもの」としてあったけど、そこからヒット作はやっぱり出てこないんです。実際、鳥山さん自身の「描きたいもの」は、申し訳ないけどつまらないんですよ(笑)。

そこに彼のボツの歴史があったんです。色々と彼はカッコいい絵柄の作品だとかを描いてきたけど、最後には「則巻千兵衛」というオッサンと「アラレちゃん」というメガネを掛けた女の子に行き着いた。でも、それこそが彼にしか描けないキャラクターだったんだね。そこに辿り着いたときに初めて、彼はヒット作家になった。

結局、ヒット作はその人の「描けるもの」からしか出てこないんです。それは作家の中にある価値観であり、その人間そのものと言ってもいい。これをいかに探させるかが大事で、そのために編集者は禅問答やカウンセリングのように色々なことを対話しながら、本人に気づかせていくんです。

すると、本人にしか出せないキャラクターが、まさに則巻千兵衛のようにポンと出てくる瞬間がある。ここにその作家の原点があるんだね。そして原点的なものは、まさに言葉本来の意味で「オリジン」(起源)なんです。「オリジナル」であることの真の意味とは、そういうことなんですよ。

3.ストーリーにリアリティは必要か?

鳥嶋氏は、リアルがないストーリーはダメだと説く。この意味は、現実ではありえないことを描くべきではないという意味だ。

「王道」なんてあるわけないじゃん。強いて言えば、そのとき流行ってるものが「王道」だよ。『バクマン』でもそんな話をしていたけど、あの作品は本当に世間に良くない影響を与えてると思うね(笑)。

「友情・努力・勝利」とか全く無意味ですね。あんなのはバカが言うことですよ。

もっと正確に言うと、「友情」と「勝利」は正しいんです。でも、「努力」は子どもは大嫌いなんです。実際、昔アンケートをしっかりと取った結果は「友情・勝利・健康」だったんだから(笑)。

だから、『ドラゴンボール』では「努力」はさせなかったんですよ。「修行しました」とは言うよ、でもあくまでも結果で見せていく。だって、「滝に打たれて修行する」とか、そんなバカな話が現実には意味ないことくらい、そりゃ今の子供は知ってるよ。そういうリアリティは普通に生きていれば、この情報時代に絶対にキャッチするからね。


荒木氏は、リアルなストーリーを追求すべきじゃないと言う。鳥嶋氏と意味合いが違うのは、現実の負の部分を書かなくてよいというニュアンスだ。

主人公は常にプラスであるべき。トーナメント制などはそれができる良いフォーマットである。キックアスの続編では、ヒットガールが普通の女の子に戻っている。見ているほうは、早くヒットガールに戻れよと思うし、これでは、マイナスプラスゼロであり感動を呼ばない。現実を考えれば常にプラスはありえないのだが、リアリティを追及する芸術作品でないならば、常にプラスを目指すべきだ。

この3年くらいで最もドックイヤーを付けた本『サピエンス全史』

この3年くらいで最もドックイヤーを付けた箇所が多い本です。
ずいぶんとブログは久しぶりですけど、この本を紹介するためだけに、久々に重い腰をあげたくらい。

サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福

サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福

特に強烈に面白かった3つのポイントだけ記載する。

  • ネアンデルタール人のDNAは最大で4%程度しか含まれていない。これは認知革命により、ネアンデルタール人ホモサピエンスに入れ替わった証拠である。
    • 社会的動物である証拠の噂話も150人を超える集団では通用しない。それを超える集団を束ねるには、神話などの「虚構」が必要。それがあるからこそ、赤の他人とも協力することができた。加えて、その神話は即座に変更可能という点も重要。それにより、1対1では、ネアンデルタール人に敵わなかったとしても、数百人で何度も立ち向かって、「いつかは」勝てたのだ。
  • 知能があがって危険な狩猟採集民から安全な農耕民になったわけではない。贅沢の罠から抜け出せなくなっただけ。
    • 農耕民のほうが仕事はきついものの、多く働けば安定した暮らしを得られると思った。
    • 実際に、単位面積当たりの養える人が増えた。ただし、その分、子供が増え、一箇所で暮らすことになったために感染症に悩まされるようになり、財産が出来たためにそれを守るための争いも増えた。結果的に、新たな悩みが出てきただけで、幸せになったとは言いにくい
  • 近代は経済が発展しパイが拡大するということが信じられてなかった。だから、金貸しがいても高金利だった。人類は「科学」という武器を手に入れ、経済が発展しうるということを実感しだしたため、まだ存在していない財をお金に換えることに同意する「信用」に基づく経済活動がなりたつようになり、人類全体の資産が飛躍的に増加した。
    • Aさんの仕事の報酬100万円を銀行に預ける。銀行は、(預かった100万円を元手に)Bさんの起業に100万円融資する。BさんはAさんに仕事を頼み報酬として100万円を支払う。するとAさんの口座には200万円振り込まれていることになる。これは、Bさんの起業というまだ価値が生じていない未来に100万円投資をすることで、見掛け上、資産が増えることになる。

マーケティング化するコンテンツは何故ダメか?『ヒット番組に必要なことは全て映画に学んだ』吉川圭三

吉川さんは、テレビ番組を作る際に、他のテレビ番組は参考にしないとのこと。かわりに、映画や本や盗み聞きなどをヒントにしているそう。

この本でも、ただヒットした映画の上っ面だけを猿真似し、マーケティング化する映画を痛烈批判している。

我々、テレビマンもなにかを調べるときインターネットに頼りすぎていないかがきになる。インターネットだけの情報でテレビを制作していると実にテレビは疲弊する。足で調べて街に出て人間にあって図書館に行ってというのがテレビマンには必要な作業ではないか。また、個人的な体験を元に企画を作るというのもよいだろう

本当の傑作は見終わった後も終わらない。何か大切なおみやげをもらったような気分になる


我々もサイトリニューアルをする上で、本とは何か?本屋とは何か、どうあるべきか?を散々考えた。そういう根っこを考えると、自分たちにあった表現が生まれたし、それは、自然とアマゾンとは違うものになった。

その工程を踏まないで、猿真似ばかりすると、その一つ一つが辻褄が合わず、すごく薄っぺらなものに仕上がってしまうんだよね。

典型例がドラマの「そして誰もいなくなった」。設定こそ面白かったのに、密閉空間にいきなり閉じ込められるcube的演出や、無意味なカーチェイスが多くて、刺激は強いが後になにも残らない作品だった。